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ヘンリー (Henry, Joseph)

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ヘンリーという人は

ジョセフ・ヘンリー ジョセフ・ヘンリー

アメリカ 1797~1878

自己誘導の発見

アメリカの大物物理学者

ニューヨーク州オールバニーの貧しい家庭に生まれ、13歳で時計屋に奉公する。 若い頃は職を転々としている。退屈でやめた雑役夫、薄給でやめた土木作業員、暑くてやめた板金工、寒くてやめた冬のカナダ国境地域の森林測量などがある。 16歳のときにある教会で”実験哲学講義”という書物を見つけ、これがヘンリーの科学への目覚めとなった。 1819年、俳優として採用するという劇場の誘いを断り、オールバニー・アカデミーの生徒となっている。伊達男だったようだ。 1826年に母校であるオールバニー・アカデミーで教師となり、農家の子供たち数十人を教える。 1832年にニュージャージー大学(後のプリンストン大学)に転じて自然哲学の教授となる。

1846年、ヘンリーはスミソニアン研究所の初代所長となり、研究の第一線からは身を引く。 スミソニアンにおける天気予報の基礎づくりなど気象学研究を組織する。アメリカ科学振興協会の創立者となり、国立科学アカデミー会長も務めた。

ヘンリーの主な経歴

ヘンリーの電磁石実験 ヘンリーの電磁石実験

1829年、導線を絶縁して非常に強力な電磁石の開発に成功する。当時はまだ未開の州であったニューヨークの、更に僻地であったオールバニーまで届く科学雑誌はあまりなかった。 数ヶ月遅れで届いた雑誌に最近復員したばかりの英国砲兵隊員、ウィリアム・スタージョンの実験記事があった。1823年にはスタージョンの実験装置を複製し、約4kgの鉄を引き付ける電磁石を作成する。 コイルの巻数を増やし約9kg以上を持ち上げることもできた。巻数を増やしていくにつれて巻いた導線の間隔が狭まり、コイルがパチパチとショートしはじめる。新妻のペチコートを裁断してこれを導線に巻き、絶縁の強化を図ったりしている。 工夫を重ね、オールバニー・アカデミーの生徒を使い、1829年には約340kgを持ち上げる小型の電磁石を完成させる。

大勢の人が見えるようにと頑丈な足場を組み立て、その上に全てを載せて公開実験してみせた。電磁石に供給するバッテリーを切り離すと、轟音とともに大量の金属が落下する。観衆は大騒ぎだった。

1830年、電磁誘導の原理を発見する。これはファラデーよりも早いが、ファラデーのほうが先に論文として発表したため電磁誘導の発見者はファラデーとされた。

1831年、電動機についての論文を発表する。発電機の逆の作用が電動機であり、発電機と逆に電気エネルギーを機械エネルギーに変換するものである。現在のモーターの原型はヘンリーによるものといえる。モーターの語源はラテン語の”動くこと” (motor)に由来する。

1831年、電信機の原理について実験する。電池を電源として、電鍵によって1.6km先の小さな電磁石を遠隔で操作する実験を行う。電池を接続すると一瞬にしてベルが鳴動するという実験を学生の前で行ってみせた。 しかし、導線の抵抗により思うとおりにならならず、この失敗を補うため1835年に継電器を発明する。 継電器により、複数の回路に電流を連絡できるようになった。この成功によりモールスの電信は実現できたといえる。 余談になるが、翌年プリンストン大学教授に就任する。実験室から大学構内に設けられた自宅に電信線を張り、自宅の奥さんに電信で昼食を注文していたようだ。活用してこそ技術である。

1832年、自己誘導の発見をする。電信の実験中に偶然、電流の断続時の誘導電圧によるスパークを目撃する。 早速、コイルの形状や巻数、鉄心の挿入などを変化して実験をはじめる。 ファラデーの電磁誘導にはこの自己誘導の部分が含まれておらず、これはヘンリーの発見として認められた。

1842年、電気振動を発見する。コンデンサに蓄えられた電荷をコイルを通じて放電すると電気振動が発生する現象を発見した。

ジョセフ・ヘンリー

ヘンリーの偉大な点は、数多くの発見をしながらそれを特許として独占しようとはしなかったことである。 裕福な生まれではないヘンリーだが、特許収入よりも科学の発明は全人類の利益のためと考えたようだ。 電信についてはアメリカのモールス、イギリスのホイートストンが有名だが、両者ともヘンリーの技術支援を受けている。 ヘンリーが特許を主張しかったために、電磁石や継電器といった発明を彼らは自由に使用することができ、それぞれが発明した電信機の特許を取得することができた。

ヘンリーは言う。「私は発明に対して特許を求めず、労力に対して対価を求めず、それらの結果を無償で世界に与えました。私の研究によって人類の知識に寄与したと喜べることだけを期待して。私が期待した報酬は科学を進歩させたという自覚と、新しい真実を発見した喜びと、これらの努力が私に与えた科学上の名声だけでした。」

1829年、イギリスの科学者、ジェームズ・スミソンがこの世を去った。石炭で財を成しノーサンバーランド公爵になった父と、ヘンリー7世の後裔を母にもち、莫大な遺産を継いでいたスミソンの遺言は、ワシントンにスミソニアン研究所という名で、知識の増加と普及を目指す機関をつくるために財産を贈与するということであった。 アメリカ議会は議論の末これを受け入れると決定するが、このとき相談にのったのがヘンリーである。スミソンの「科学者は祖国を持たない。世界が彼の祖国であり、人間は全て世界の国民である。」という言葉から、研究所による恩恵はアメリカ国内にとどまらず全人類に及ぶようにすべきだと議会に提案する。 スミソニアン研究所初代所長への就任要請をしぶしぶ引き受けるヘンリー。しかし、給料の増額は生涯拒んだ。さまざまな公職を引き受けるも報酬は一切受け取らなかったという。

電磁誘導であるが、ヘンリーの電磁誘導とならなかった理由は大学の講堂を実験場としており、講堂は夏休みの間しか使えなかったため翌年まで待っていたらファラデーに発表されてしまったということらしい。毎日7時間の講義を科せられ、自身の研究は夏休みくらいしか行えなかったのである。 ファラデーが発表したあとに慌てて発表したがダメだったようだ。1836年にイギリスへ旅行に行き、ファラデーとの親交が始まる。 権力を拒み生涯一研究者であり続けたファラデー。自分の金よりも人類全体の利益を選んだヘンリー。共通するものがある気がする。

ヘンリーの葬儀にはアメリカ第19代大統領、ラザフォード・B・ヘイズも出席したそうである。

インダクタンスの単位・ヘンリー

現在ヘンリーの名は、インダクタンスの単位ヘンリー[H]として、SI組立単位に残っている。

Last Update 2010/09/05

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